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地方の劇場が舞台芸術のクリエーションに取りくむための手順

地方の文化財団および劇場が舞台芸術のクリエーションを行うという事はどのような事でしょうか。
文化の側からすると、一般的には新しい文化は都市からやってくると一般的には思われていますが、これは全く間違いでしょう。都市は人口と情報が集中する故にモノがあふれ、それらの消費速度も加速しています。都市には新しいモノは確かに多いのですが、消費される事に価値を見出すポップアートのような刺激が強調された表現が多く、芸術の真理に達していな作品が多いと思われます。地方でのクリエーションは都市とは異なる経済状況から、芸術家が一定の期間作品制作に専念でき、作品に向き合う時間が多く持てる事で新しい表現に到達する可能性があるのではないでしょうか。
地方地域の側からすると、そのような新しい文化活動に関わる機会を通じ知性を養う活動を一つの価値として見出す必要があり、これも「新しい文化は都市からやってくるのではない」という前提の上に、創作を受け入れ、支え、見守る事自体が文化活動の一部である認識が必要です。
これらを前提に、地方の文化財団および劇場が舞台芸術のクリエーションを考えるといくつ可能方法が考えられます。この論議は、地方芸術関係者で多く方々が議論していると思いますので、ここでは芸術家は何処から来るのかという論点から考えるたいと思います。

-都市と芸術家
一般的に、芸術家という職業があり、一定の規模の都市いるものと思われています。これは都市/価値/交換の話ですから、地方では価値と交換の資本サイクルが一定の速度を持たないため(むしろ一定なため)、芸術家がシステムとして生まれません。資本論の話は難しくなるのでやめて、簡単にまとめると地方では鑑賞者が芸術価値を見出せないため、芸術家は職業にならない。

-週末芸術家の問題
地方には芸術家はいないが、週末芸術家はたくさんいます。しかし、週末芸術家は自主的な表現の枠を超えない限り、社会的に問題に答えられる真理に到達しえないません。なぜ表現の枠を超えられないかといえば、生活の中で身体的なズレを体験できないと、芸術に繋がらないからです。
差別問題からヒップホップが生まれ、戦争問題から多くの映画が作られます。このような個人的な問題から社会問題までで様々なレベルのズレを体感できる環境がまず必要となり、それらを乗り越えようとした際に新しい表現は生まれてきます。ズレを感じる事が芸術的な真理の入り口です。地方はこのズレが生まれずらいといえます。また、ズレを感じた人がいたとしてもそれを表現し評価される場所が有りません。

-「量」と「質」
都市の問題にもう一度触れておくと、都市では資本のサイクル自体が批評期間となっています。つまり、物(物に付随するサービス)が多く売れる事が評価を得たことと同等の価値として扱われます。しかし、「量」は「質」と同等ではない事がムシされるのが都市型資本主義の問題点です。都市型芸術は確かに魅力的ですが、決して「質」を追求しているとは言えません。

-フィードバックサイクル
「質」はどのように追求したら良いのでしょうか。ここでの「質」は新鮮という意味ではなく、「語られざる質」という言葉が適切でしょう。これはさきほど述べた、ズレの体感を追求することが不可欠であり、ズレとは主観と客観の差異にあり、フィードバックという言葉が質につながる手がかりです。ズレの体感がプレゼンテーション(表現)された時、観察者の体感(感想)が投げ返されるサイクル、つまり、表現と批評のサイクルが質の向上の一つの手段です。

-まとめ
これらをふまえた上で、地方の芸術劇場が舞台芸術のクリエーションを考えると、

  1. 速度優先の都市のような芸術制作は地方では機能しない。
  2. 地方では質を追求するゆとりがある。
  3. 芸術的想像力は差異の体感によって生まれる。しかし、地方での生活の中では差異が生まれにくい。
  4. 地方型芸術は差異作り出すシステムが必要。

結論は地方で芸術を育ませるには、差異作り出すシステム、フィードバックサイクルの設計が必要です。
芸術的想像力に必要な「差異の体感とフィードバックサイクル」は、簡単にいえば、「表現が批評を生み、批評が表現に影響を与え、次の表現につながる」というこのサイクルです。このサイクルは都市では、評論家という役割によって、鑑賞者ー評論家ー芸術の関係がサイクルをまわしています。しかし、この場合、評論家の腕にかかっていますので、地方ではあまり機能しません。地方では、鑑賞者ー劇場ー芸術の関係のなかから、劇場が批評的な要素を担う必要があります。つまり、劇場を支える鑑賞者に批評的な視点を促すように劇場がつとめる必要が有ります。

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