「懐かしい未来 ラダックから学ぶ」を読む

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SF小説にありそうなタイトルですが表紙はどう見てもチベットの山岳民族の写真です。私は下調べを一切せず購入しました。タイトルにはいくつかのいみと含みがあり、英語のタイトル都では少し印象が違うようです。

スウェーデンの言語人類学者であるヘレナ・ノーバーグ=ホッジ氏による著作「懐かしい未来―ラダックから学ぶ」は、1975年にラダック地方を訪れた著者が、伝統的な生活様式と急速な近代化の狭間で揺れるラダックの人々の姿を通して、持続可能な社会のあり方を模索した記録です。

本の内容は持続可能な地球と共生社会を形成していた民族が近代化と共にその社会が崩壊していく様を描いたよくある話のように見られるかもしれませんが、この本が優れているのは、持続可能社会という点以外にも、言語学的、フェミニスト的、仏教学的といった様々分野からも一つの指標になるようにかかれている点です。

タイトルの謎「Ancient Futures」の意味

原題は、”Ancient Futures: Learning from Ladakh””です。”Ancient Futures”という表現は、日本題と同じく矛盾矛盾ですが、”Ancient”には、「古い」「古代の」という意味だけでなく、「伝統的な」「受け継がれてきた」という意味。”Futures”は単に「未来」という意味だけでなく、「可能性」「将来性」という意味合いも含まれています。ラダックの伝統的な文化や価値観が、現代社会にとって未来への指針となるという意味が込められています。
私の解釈では本書の中盤で以下の部分を読んで、タイトルの意味がふに落ちました。

ある日、彼の祖父が病気になり、リジンは両親を説得し、最近、アメリカで西洋医学の訓練を受けて帰ってきた医者を連れてきた。彼はその医者に、西洋世界での生活について質問を浴びせかけた。医者の話に彼は驚かされることになった。医者が、「アメリカではー」と言って、こんな話をした。
「進歩的な人たちは石臼で挽いた全粒粉小麦のパンを食べている。それは私たちの伝統的なパンにとても似ているけれど、白いパンよりもずっと値段が高い。そういう人たちは私たちと同じように自然の材料で家を建てている。コンクリートの家に住むのはだいたい貧しい人びとである。服は〈100パーセント天然素材〉とか、純毛などとラベルに書いてある。貧しい人がポリエステルの服を着ている」それはリジンが想像していたのとは、まったく違っていた。

若者が目指していた未来的な生活のもっと先にはまるでその若者が馬鹿にしていた古い生活だった。そして近代化が進んですっかり変わってしまった村はもう昔の生活には戻れないほど変わってしまっていた。これが「懐かしい」といった日本語の場合は英題のには表現されていいない、もう戻れない思い出といった意味合いがあるように思います。

言語と文化

次に言語学的な視点での記述が面白い。ベンジャミン・ウォーフが述べているような「言語が思考を規定する」といった記述が出てきます。

ラダックでは、言葉さえも仏教の影響を受けていると言える。私が知っている西洋の言語と比べ、ラダックの言語は関係に大きな重要性をおいているように思える。ラダックの言葉は話そうとする文脈について、より多くのことを表現する。もっとも著しいのは、de動詞が状況に応じて二十以上にも変化することである。それはとりわけ、話題に関する話し手と聞き手の相対的な親密さによる。西洋人とは異なり、ラダックの人びとは経験したことのない事柄に対しては決して確信的な言い方をしない。自ら体験したことのない事柄には、知識が限られていることを示す言い回しをする。「……といわれている」、「……のように見える」、「おそらく…だろう」と表現するだろう。
中略
自ら体験したことであっても、細かに分類したり、評価することを私たちよりも嫌う。善し悪し、速い遅い、こちらとあちら、といった事柄は、はっきり区別できる性質のものではない。たとえば、精神と肉体、あるいは思考と直感を基本的に対立する関係で捉えていない。ラダックの人びとは、センバと呼ぶものを通じて世界を経験する。これは「心」と「精神」とのあいだ、と訳すのがもっともふさわしい。これは知恵と慈悲とが不可分という仏教の教えの表われである。

ラダックとモラルの関係

このことが以下のようなモラルに紐づきます。

ラダックの人たちの生、そして死に対する姿勢は、無常に対する直感的な理解と、その結果として執着心のなさとに基づいているように思われる。ラダックの友人のこうした態度に、私は何度も驚いた。彼らは、物事はこうでなければならないという考え方に固執するより、むしろ物事をあるがままに積極的に受け入れる能力が身についている。たとえば、何力月も手塩にかけて育ててきた大麦や小麦が、収穫の途中で雪や雨のために駄目になってしまうことがある。だが、まったく平静を保ち、よく冗談を言って片境を笑い飛ばす。

筆者ヘレナは近代化をひていはしていない。そのうえでまず第一に、言語を勉強し、世界を勉強することを強く進めている。弱い者たちを守ろうという動物愛護に精通づる思想は否定する。一方で、自立するためには正しいサポートがとも述べている。つまり、第二には、突き放してはならない。理解ある近代化された資本主義側の人間は、自立をサポートし行動に出られるような場や関係作らなければならないと述べている。

この本の中で私が明らかにしようとしたように、文化を崩壊へと導いていく圧力は数多く、その形はさまざまである。だがそういった圧力の中で、もっとも大きな問題は、進行する開発の真っただ中にいるために、広い視野から何が自分たちに起きているのかという全体像を見ようとせず、または見ることができなくなってしまっているという事実である。近代化が、固有の文化に対する脅威だとは受け取られていない。ひとつひとつの変化は、だいたい無条件で進歩のように見える。ラダックの人たちのほとんどは、世界のほかの地域で開発がどんな影響を与えたかについての知識がないため、変化による長期的な損失を予測することができない。過去を振り返ることによってのみ、変化の破壊的な影響が明らかになる。

開発は必ず破壊につながるのだろうか。私はそうは思わない。ラダックの人たちは何世紀ものあいだ大切にしてきた社会的、環境的なバランスを犠牲にすることなく、生活水準を上げることができると私は確信している。だがそうするためには、ラダックの人たちは、自分たちの古来からの基盤の」」に新しいものを築いていく必要がある。基盤をつき崩してから新しいものを築くというのは、従来の開発の発想である。

これはモラルの問題になってくる。本書では文教がそのようなモラル形成をしていると書いてあるが、仏教も広いし、単純に仏教的思考をとり入れればモラルが回復す問題ではない。
近年、選挙活動に対して法律強化を進める動きが活発になってきているが、成熟した先進国はどちらかといえば法はむしろ緩く、モラルに任されているようだ。スイスなど何も法律がないらしい。日本のこのような法を厳格にせざる得ない状況は世界的に観れば恥ずかしい話であり、そのような点からもラダックには学ばなければならないように思う。

異文化の比較

たまたま同時期に「ヤノマミ」という本を読んだ。民族が地球と共生してきた社会が近代化と共に崩壊していく様を描いたブラジル版といったところだ。ヤノマミは、ジャングルという環境で、精霊と共に生活しています。著者、国分拓は日本のノンフィクション、ドキュメンタリー作家であり、研究者ではありませんが、ラダックの社会を読んだ直後にヤノマミの社会を読むと、確実に異なる点があります。それは、彼らが仲間とそれ以外を明確に区別しようとする傾向や、特にヤノマミは外部から来た人々に対する態度の違いです。ヤノマミは「私はあいつよりも強くて偉い」と自慢する人物が登場し、そのような態度は一般的なようです。アマゾンとチベットの高山とでは大きく環境は異なりますが、自然と共生する上で過酷な環境という点では同じはずなのに、モラルに違いがあるように思われます。ラダックの寛容さはおそらく仏教の影響でしょうか?それとも語彙に由来するものなのでしょうか?この点について興味が湧きます。

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