東京都現代美術館で『翻訳できない私の言葉』展を最終日に拝見してきました。わざわざいったものの展覧会は予想と少し異なりました。
障害とダンスの関係、ろう者の手話コミュニケーション、岐阜県に住むブラジル人のための学校など、日常生活では見えにくい社会の周縁部分に光を当て、通訳者や支援者の視点から「私」という概念を探り、マイノリティやアイデンティティにフォーカスしています。これらは重要なテーマですが、この主題をさらに深く掘り下げているとは感じられませんでした。
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/mywords/
このタイトル『翻訳できない私の言葉』はアイヌのバックグラウンドをもつマユンキキさんと翻訳家の田村かのこさんの対話が本展示の軸になっているように私は感じました。
マユンキキさんはアイヌのバックグラウンドを持ちながら、そのバックグラウンドを記号的に扱われることに違和感を覚え、自身の言葉で自己表現したいという強い思いを持っているようです。田村さんは札幌国際芸術祭2020ではコミュニケーションデザインディレクターという翻訳家の枠を超えた仕事をされている一方で、通訳の仕事に違和感、もしくは慎重さがある方です。しかし、この二人とも極めて知的な日本人女性を代表しており、様々な過酷なコミュニケーションの現場で「私」を強調したり、「私」を殺したりしながら培った独特のしぐさが、二人がにじみ出ています。どこにそれが表れているかといえば、二人はお互いの意見を尊重するように大きな身ぶりで相槌です。それもあってか、マユンキキさんのしぐさかからは、アイヌ文化は私にはまったく見えませんでした。これは、沖縄の人々は今でも極端なまりや独特の文法や身振りを持つのとは対照的です。このことから、アイヌの文化的特徴が日常の振る舞いにどの程度残っているかという疑問が浮かびます。私は文化は血に残るのではなく、身ぶりやしぐさ習慣にのこり引き継がれると考えているから、大きな身ぶりで相槌をうち、腕を組んだり、さまざまな仕草をみせ、時には、相手に伝えているよ言うよりも、自問自答になっているかのよう仕草が見られます。ちなみに相槌が多いのは日本人の特徴です。
展示全体を通じて、仕草という観点から見ると興味深い発見がありました。例えば、ろう者の手話では余計な動きを省き、明確なコミュニケーションを重視しするため、下手にうなづいたり、話を聞いている時にも手は極力動かしません。また、別の映像で、子供と母親や祖母と娘などの家族間の会話では自明なことが多いのでしょう。しぐさも会話の単語数も極端に少なくなるなど、状況に応じて仕草が変化する様子が観察できました。
私個人としては、言語と仕草が「私の言葉」にどのように影響を与えているか、英語のように「私」を強調する文化と、ほとんど強要しない日本語を比較できるような展示を期待していましたが、実際の展示はそこまで踏み込んでいませんでした。
最後に、ダンサーの新井英夫さんについて触れておきます。彼はコンタクト・インプロビゼーションを通じて子供や障害者とコミュニケーションを支援するたちばでしたが、最近自身がALS(筋萎縮性側索硬化症)の発病から、障害者の立場になり、両方の視点を持つユニークな存在です。新井は体調が良ければ会場に来られるらしく、ベットが置かれていました。彼が来場していれば、展覧会全体に異なる解釈や深みをもたらしたかもしれません。残念ながら、最終日には来られていませんでした。