多田道太郎『しぐさの日本文化』を読む

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

最近読んだ本、多田道太郎『しぐさの日本文化』(1972年)が非常に素晴らしかった。恥ずかしながら多田道太郎は初めて読みました。ジェスチャーに関する研究者といえば、デズモンド・モリスは定番で、日本ではコレクティブな観点から野村雅一氏がいらっしゃいます。この本では人間学として掘り下げた内容であり、モリスもリストは異なる視点で書かれていました。なにより文章が美しい。現代の研究者ではこのゆな優れた文章では書けないように思います。

ゼスチュアという一つの外国語を、日本語では、しぐさと言い、身振りと言う。しぐさのほうは
’ふつう、舞台の上での身振りのことである。人に見られることを予想している。しかも、ほんのちょっとした微妙な身振りである。(大げさな身振り。とは言うが、大げさなしぐ
さとは言うまい。)日本人の身振りは、けっきょく、こういうしぐさに収斂するのではないか、と思っている。
舞台、というのは一つの安定した枠である。その枠にはまった安定した身振り、とりわけ手も
との微妙な表現に、私たちは何かほっとした気分を味わうようである。微妙な}こアンスをふくんだまま、それは安定しており、その安定をささえるものとして、前にのべた「見立て」の文化がある。
「しぐさ」といったものにまで洗練されていない身振りにも、やはり、安定への志向がある。

しぐさ、身振り、姿勢―それらは、けっきょく、人間関係をととのえるための、精神・身体的表現であり、そういったものが、ある社会的まとまりをもつと、私たちは、いかにも日本人らしいとか、いかにもアメリカ人らしいといった印象をうける。文化の型の刻印がそこにしるされているように思うのだ。
日本人の人間関係の特徴は、「つながり」と「へだたり」という、二つの異なった原理であらわされるように私は考える。襖の向こうでまずお辞儀をする。「もそっと近こう」とか何とか言われて、しだいに殿様に近づいてゆく。昔のああいった「へだたり」の行動様式は、人と人とのつきあいには、抑制がなければならぬということを端的に示している。日本人の、おどろくばかりの身振りの少なさは、自制心の表現にほかならず、したがって、身振りを抑制することが、じつは逆説的に、一つの自己主張ともなっているのである。自制心のよくきいた人物、ということが人物評価の基準となる。

いきなり最後の”むすび”の文を引用したが、「みぶり」と「しぐさ」を明確に分けて考えるのは、生活の中で体に積もった無意識の行動で、単純な生活習慣に由来性ないということだ。そして日本では抑制という習慣であり美徳がその行動に表れているという。

日本人の謙遜、抑制、ということがいわれる。いっぽう、日本人の自尊心の高さ、怒りっぽさということもいわれる。その間をつなげて考えるのはむずかしく、日本人の一つの謎などと大げさに外国人に言われることもある。
理解のかぎはおそらくこうであろう。つまり抑制とはわれわれの間にあっては一つの自己主張なのだ。感情を巧みに抑制しうるということが、かえってその人の価値となる。いかに巧みに感情を押えているかという身振り、しぐさが、その人の価値を浮きたたせることになり、したがって、抑制がかえってその人の価値の主張となるのである。

現代日本の社会、そこに生きる人びとの姿勢を考えるとき、私の気になる一つのことば、一つの問題がある。あるいは、一つのことばに集約されている一つの問題がある。それは「頑張る」ということばだ。

頑張るとは「自分」が頑張るのである。あえて共同の常識を破ってまでおのれを主張することである。しかし、戦後の慣用語である「おたがいに頑張ろう」とは、みんなが、たがいにはげましあって我をつらぬくということだ。いわぱ、同調的個人主義とでもいったものだ。
「おれも行くから君も行け」という一節が大正の流行歌にあったが。この同伴的、同調的意識が、それとはうらはらであるはずの個人主義の社会的ささえとなっている。西洋の人びとが見れば、あるいは集団的個人主義という妙な用語を思いつくかもしれない。しかし私たちは、日常このように意識化して「頑張れ」「頑張ろう」といっているわけではない。ただ何となくそのような気分になっている。そのような—というのは、くどく繰り返せば社会集団の雰囲気に同調しておのれのエネルギーを出しきろうという気分である。そしてそのことを良しとする無意識の良心の激励である。したがって、新婚のカップルを駅頭におくる若人たちが、つい無意識に「頑張ってきてね」などという。結婚という事業も頑張らなければできないという、これは集団的無意識の表現なのであろうか。 この現象にも、個人と集団という、ふつうは相いれないと考えられているものの、奇妙な結びつきがみられる。模倣と創意との関係もまた、これに近い、おもしろいむすびつきかたをしているのではなかろうか。

次に頑張ることについて述べられた部分だが、私も若いころから「頑張って」という声掛けはとても無責任で気に入らなかった。それなら「一生懸命やってこい」まだましだ。そして、SNSではこの「頑張って」というコメントがあふれている。このような無責任は声掛けが横行し、多田のいう集団的個人主義なのだろうか?私は、SNS上の誹謗中傷とこの「頑張って」は同じ立場に立っているようにおもえる。つまり無責任以前に、個人が個人として成り立っておらず、なんとなくの全体という感覚から述べているのではないだろうか?


次に、以下の人間関係をどのように意味づけするかという視点が書かれた文を見てみる。

いけばなは人と人とをつなぐ。これが私の考えである。女は物言わぬがよし、と古来されてきている。その物言わぬ存在が、いけばなに自らを託すことによって、人と人とをつなぐ強力な媒体となりうる。物言う客と主人とをつなぐことで、物言う人びとよりも、もっと意味深いことを言う、そういう存在になる。

時代映画などで、男と女が寄りそうとき、ぽっかり大川端などに月がうかんでいる。その月をふたりが見あげてやっと二人は気持を通わせ手をつなぐ、といったシーンにお目にかかる。
このばあい、月が二人のコミごIケイショソの仲だちになっている。私はかつて、こういう形式のコミュニケイショソをク″ショソ型のコミごIケイショソと呼んだことがあるが、じつはこの「ク″ション」が曲者なのである。
お月さま、赤ん坊、生花-と並べてくると、そこに何かの形で私たちの自然観が投影されていることに気づく。月は自然そのものであって私たちの運命を観照している。いけばなは、人の手をくわえた(ということは社会化された)自然である。赤ん坊は、人間世界に仮象した自然である。
こうした自然は、私たちが手を加え(いけばな)、あるいは私たちが性のいとなみで作り(赤ん坊)、あるいは私たちが象徴の体系にくみいれた(月)自然である。それらは、たしかにある意味では人工的であるが。しかしやはり、私たちの世界、および人間たちを観照する「自然」なのである。いけばなも、そのような「自然」であるからこそ、いけた女性の手をはなれ、床の間から私たちを観照する存在となる。そして、そのようないけぱなをク″ションとして、はじめて主人と客とは、気持の通いあうのを知るのである。
つながりはなるべく物言わぬがよいのである。物言わぬことで、空間の中にある種の流れがうまれ、時間の中に文化という名の連続性がうまれてくる

なにか媒介することによって、自分たちの関係を意味づけるということだが、古い方法としては、結婚という制度をつかって関係に意味を与えようとする人間の文化があるが、月でなんでもいいとうことは面白い。また、別の見方をすれば、媒介が無ければ意味を与えられないとも言える。もしくは関係性に意味を与えようとするなら、媒介する何かを用意すればいいということだ。舞台の構造も、観客がいるから作品として成立している。この観客というものが現在は客席に座っていないかもしれないというのが現代だ。


ヨーロッパにあって日本に移植されなかった、あるいは移植困難であったものが二つある。
それは「論理」と「雄弁」である。論理のほうは別として日本には雄弁の伝統というものがまるでなかった。ふしぎなことであるが事実、そうである。ということは、雄弁の目的である「説得」という行為が、わが国では不要であったということであろうか。それはともかく、雄弁の育たなかったことが、身振りをいちじるしく貧弱にした一因であることは、まずまちがいない。西洋人はたとえば大きく両手をひろげる。それは、相手を、人々を、世界を自分のうちにとりこむ身振りである。歓迎を意味することもあれば、人を自分の味方にとりこむことをも意味する。西洋人は、こういう感情表現としての身振りを、ことばとともにひじょうに大事にする。ということは、ことばだけでは、自分と相手、そしてそれらをとりまく状況全体についての感情をうまく伝えられないからである。
西洋人が日本語を学んで面くらうことの一つは、自称詞の複雑多様なことである。ワタシ、ボク、オレ、自分、ワタクシ、テマエ、コチトラ、ウチ、ワテ、アタイ……等々。モの他、状況によっては、自分のことをパパと呼んだり、オジイチャソと呼んだりする。こういうことばを学んでも、うまく状況に合わせて使うことができない。英語なら”アイ”のI語ですまされる。しかし、英語のばあい、さまざまの抑揚があり、また、さまざまの身振りがある。その身振りによって、ことばの貧弱さを補っているわけだ。このことは私の発見ではなく、在日の一アメリカ少女がそんなことを言っており、私はそれに感心したのだが、日本のばあい、身振りの貧しさと自称詞の豊かさとは、一つの事柄のウラとオモテである。

ヨーロッパにあって日本に移植困難であったもの「論理」と「雄弁」といういうのは痛いところをついてきたと思います。これはプレゼンテーションができないということです。プレゼンテーションはこれから鍛えたとしても、やはり、アメリカ人にはかなわない気がしている。逆にアメリカ人はすべてプレゼンテーションになっていて、近年では大統領演説を見ていても分かるように、プレゼンテーションが劇的な口調で語られており、劇的な方が素晴らしいという傾向があるように見える。多田氏がいうように逆手にとって、自称詞の複雑多様をもって劇的な雄弁に対象するのが良いのだと思う。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。