舞踊学会大会参加記:三浦雅士先生の公演に見る、舞踊と形而上学

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舞踊学会大会にほぼ始めて参加してきました。厳密には2ゲストスピーカーとして日帰りで参加したことがあり、その際はインフルエンザ明けで体調を崩していたため、日帰りで登壇枠だけの参加でした。それ以後は1最近は12月はいつも忙しく、参加できなかったのですが、今年は気持ちに変化があり、再度参加することにしました。

この学会は、舞踊(ダンス)の幅広いジャンルが議論される場で、盆踊りからメルロ=ポンティーまで範囲が広い議論されます。今回は、この学術体系の代表格でもある、三浦雅士先生の公演がありました。「パンデミックと舞踊の形而上学」とだいされたこの公演は突っ込みどころ満載でしたが、一貫して「これからは舞踊学の時代が来る!」という呪文のように熱く唱えており、個人的にはこのような考えの先陣がいてくれることにとても安堵感がありました。

三浦先生は77歳ですが、本人は老いた自覚はあるものの、いたって若く活発です。昨晩から徹夜で原稿を作ったそうなのですが、話は原稿とは異なる独特のアプローチで進行しました。

全体的な主張としては、幼児期の母親と赤ん坊の関係が形而上学的であり、そこから舞踊学につながるという意見です。おそらく、ダンサーが自身のパフォーマンスを客観的に見る視点を舞台上で持っているということ、幼児期の母親の行動模倣とが関係があるという意図が感じられました。しかし、これが経済活動の根本に舞踊学が存在し、世界中の紛争なども舞踊に関連して研究を進めるべきだと結びつけるのは、論理的なつながりが弱いように感じられます。

また、仕付けの話から、明治時代の国家戦略として行われた体育教育制度、美術教育制度が現在に与える影響について批判しているのですが、落としどころが明確でなかったため、古典的な仕付けの復権を推奨しているように聞こえました。実際は研究すべきで推奨してるわけではないっぽいです。また、知ってて話されているのか分かりませんが、現在の日本人のしぐさや仕付けの内容も明治時代に作られたもなので、このあたりも含めて理解に苦しい。

三浦先生の口から出てくる思想家はすべて欧州の思想であり、日本の哲学者、思想家は漱石と世阿弥にしか触れていません。弁証法に引き合いに出すなら、日本古武道の「兵法家伝」とか剣道の「先々の先」のなどのほうが比較しやすいように思いますが(西田幾多郎は認めない世代というのもある)、やはり、「舞踊は美学を示」、「武術が機能を表」ことから、この二つの使い分けずに語りたい、もしくは「身体知」と一言では言いたくないのでしょう。

三浦先生は2時間ぶっ続けで立ったまま話をし、質疑応答時間も大幅に減りました。私は前に座っていたため、これだけのパフォーマンスを見せてもらったので、何か返さなければ、ととりあえず手を挙げて質問をしてみました。とりあえず、現在のYouTubeやtiktokなどの加速化する情報メディアについてどう考えているかについて質問してみたところ。そもそも、技術は身体の欲求に応答するように先進するものだと語り、基本姿勢としては新しいとか古いとかではなく、身体の欲求に影響を与えていることを研究すべき指摘し、新しい技術は積極的に取り組む必要があると述べました。また、一方で舞踊学を研究する上では、直接舞台に行く必要はなく、映像の方がより深く知れることがあると事例をふくめて述べていました。

私は舞台を計算装置として捉えています。このあたりも補足的に質問したところ、「技術は身体の欲求に応答するように先進する」という考え方を踏まえると、「コンピューターの高速化はそもそも人間が望んでいる」と説明できるため、人間の処理能力の向上は人間の欲求でり舞踊学(身体知の研究)とつながる、といった考えを述べられました(と解釈しました)。舞台芸術界での新しい技術への保守的な考え方に、このような新しい視点が示され、賛同されたことに畏敬の念に打たれまった。

舞踊学会全体で、興味深い視点や研究成果が多く見られました。しかし、これらの舞踊学の研究が他の学術分野に十分に伝わっていないように感じ、積極的に情報発信していく必要性を強く感じました。

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