身体の教えに素直にみる:実演、批評、鑑賞の屈折

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ドラマトゥルクミーティングの2日目に参加してきました。

ドラマトゥルク・ミーティング「ドラマトゥルクがいると何が生まれるか?実践的思考と創造プロセスの生成

一日のうちに6本のセッションがあり、様々な角度からドラマトゥルクの可能性について議論されるものでしたが、最後の中島先生のプレゼンテーションの中で重要な疑問点を見つけ、直接ドラマトゥルクとは関係ないものですが、その疑問を書き留めます。

-これを書き留めてから、岩淵さんの助言から少し考えを改め、批判的な態度を文面の後半で修正しました。

中島先生は学術的プレゼン能力に秀でており、特に前半のダンスにおけるドラマトルクの役割やその歴史について、わかりやすくまとめられていました。後半は挑戦的な実演を交えたプレゼンテーションが披露されました。喜多流シテ方の能楽師、高林白牛ロニ先生をゲストに招き、古典芸能でのドラマトゥルクをワークショップ形式で実演するという斬新な試みもありました。日本古典芸能のドラマトゥルクとしては、花柳寿々紫(1928- 2010)が有名ですが、この能楽師の先生は能以外の他のジャンルにはあまり精通していないようです。

高林先生は「離見の見」という技のデモンストレーションを行い、参加者は2つの実演の選択肢から「離見の見」を実演した方を当てるクイズです。技の洗練された動きと重みのある言葉に、観客も高林先生の話と動きに熱心に耳を傾けていました。会場では2つの実演中2つ目の実演の方が挙手が多かったのですが、正解は1つ目でした。高林先生は能を見るのは難しいのですと答え、会場は閉口しました。

ただ、私は少し疑問を感じます。能の重要性やドラマが芸術に与える影響について、そしてこの会がドラマトゥルグの未来を語る会であることに。そういった疑問を皆が持っていないように思えました。私は能楽に関しては、技術的な側面に囚われすぎているのではないかと感じました。世阿弥は天才的な身体能力と思想の持ち主であることに異論はありませんが、能楽が室町時代中期における当時の芸能のいいとこどりの芸能であることは見逃してはなりません。当時の奉納舞や平家琵琶の良いところをつまんだり、平家物語などは筋をバラバラにコラージュしています。文献を沢山読むということではなく、これらの背景を技の中から身体で読み取る必要があます。この芸能が未来の身体表現にどのように影響をもっと与えるかを考える必要があります。

2つの実演を比べると、パフォーマンスとしては後者の方が優れていたと私は思いましたし、会場の多くのひとはそう感じたはずです。一つ前のセッションでも岩淵禎太さんが述べていましたが「進むべき方法は身体の方が教えてくれます。頭で考えるより身体は早い」と述べており、これに習って、実演から受けた印象から良い方を挙手をしたまでです。この事実は、能は見るのが難しいなどとへりくだるのは愚問です。1つ目の実演は能の技術としては確かに洗練されていたものの、空っぽに見えました。それに比べて、後者の方がニュートラルで奥深さや自然さを感じ、なにより長年積み重ねた動きの重みが漏れ出ているように見えました。現代人が求めるものは、空虚なものではなく、深みや複雑さなによりも人生を感じる物を観たいと思うのです。二つの動きがどちらが正しいかとか、どちらが好まれるかということの以前に、会場の観客が2つ目の方が賛同者が多かったという事実は踏まえる必要があるでしょう。能楽師が求める技術と評論家が求める技術、観客が望むものが一致しないことは、このジャンルの制約に起因する場合もあるわけで、これにフォーカスするべきではないでしょうか。このドラマトゥルクミーティングでは、この三者が拮抗したままのように思えます。

ここまで勢いよく批判しましたが、ドラマトゥルクミーティングで提示された「権力の分散としてのドラマツルク」という観点から考えると疑問はあり、古典という権力に縛られすぎているという批判も確かに存在します。しかし、双方の立場にも一理あると言えるでしょう。そこで、少し考え直して、真逆の擁護する側の意見もまとめてみました。

能楽という芸能は、室町時代に日本の芸能において画期的であった点は、「見る」という視点が持ち込まれたことです。これまでの芸能は、盲僧琵琶、平家琵琶を代表する能楽より古い芸能には、死者との対話とその例を体に宿すといった要素がありました。奉納舞においても同様のことが言えます。特に、これら芸能の特徴としては、伝承の際に見ることは重視されていません。妄想琵琶においては、目が不自由な方のによる口伝という特徴がありますから、そもそも書き留めることもできず、あの平家物語などの長編を耳でだけで丸暗記しているという特徴があります。

能楽というのは、世阿弥、観阿弥、つまり演じるものとそれを見るものという2人の役割に別れ、これらを視覚的に、謡を含めた複合的なものとして捉え、それを記述した点が大きいです。「離見の見」と言った特殊な用語が発明されるわけです。

また、霊的なものも決して失われたわけではありません。橋掛かりを始め、死者があの世からやってくるという役割を引き受けています。

幽玄の「幽」の字は、白川静によれば、真っ黒に焦げた糸巻きをじっと見ていると音が聞こえるとありますから、やはりあの世の声を聞こうとする態度というのは失われてわけではありません。その上で、シテ方の動きには常にからっぽの霊がいつでも宿れるような体である必要があるとも考えられます。(霊を宿すトレーニングはして煮のでしょうけれど)先生の動きに空っぽな感じがあるのはを感じたのはこの点なのではないかと考えられます。

ただ、この長い経歴を経て、シテ方以外の技術の現代人を圧倒するような技術も実は本人が気づいていないが習得しているとも読み取れるわけです。本人も気づいてないわけですから、まあ説明は難しいのでしょう。けれども、こういったところは違う意味で可能性があるのかもしれません。

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