ドラマトゥルクとメディアトゥルグ:舞台芸術における新たな権力構造「睨み」の変容

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京都芸術大学で行われている“ドラマトゥルク・ミーティング「ドラマトゥルクがいると何が生まれるか?実践的思考と創造プロセスの生成」”というシンポジウムに参加してきました。

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未来的な議論を期待していたのですが、興味深い活発な議論はありませんでした。ドラマトゥルクとは、演出家や振付師と共に作業を行う言わば軍師の役割で、舞台や作品を完成させるための構想を練る役割で、この仕事では、各人の得意とする能力に依存して進められることが特徴です。つまり歴史に強ければ歴史の視点からの助言。翻訳が得意なら言語的な助言をすることで作品をより深いものへ施策を深めます。私は20年ほど前にこの仕事の存在を知り、自分の立場から、メディアトゥルグという役職を考案し、それを仕事としてきました。

ドラマトゥルクの役割と権力構造の変容

シンポジウム冒頭では、中島先生からドラマトゥルクの可能性として、舞台芸術の創作のうえではたらく権力構造が、ドラマトゥルクによって分散される可能性がある。というケア的な意味での役割の可能性について、ヒントが与えられました。これは中島先生らしい考え方であり、これまでの社会では権力や支配が演出家といった特定の人物に集中していましたが、今はやりの言葉でいうコンプライアンスをセラピスト的に解消するというもので、20年前にはなかった役割です。

「睨み」の文化とその変化

この話は注目すべき主題だと思います。私は「権力」という言葉よりも「睨み」という言葉が適しているように思います。近年は「睨み」という形で権力を示していましたが、今ではそのようなジェスチャーは具体的な行動に出ていなくても、パワーハラスメントとして問題視されることもあります。舞台芸術の分野では、灰皿を投げつける演出家をはじめ「睨みの社会構造」はつい最近まで一般的でした。

この「睨みの社会構造」の基本は、浅田彰氏も「構造と力」で指摘している、教育現場の教師の役割が引き合いに出されるでしょう。近代化が進み、民主化が進むということは、教室の前で睨みをきかせている教師を排除しようとしますが、近代モデルとして、教室で勉強を進める学生たちにとっては、心の内面に睨みの視線を作り出してしまう。結局の所、この「睨み」は現在ではバーチャルな世界に移行しただけで、無くなったわけはない。「構造と力」が書かれた時点では、インターネットもSNSもありませんから、他者の目線が内面化されるといった表現になります。この時点では、個々がそれぞれの視線を作り出していますが、現在はさらに屈折して、SNSをインターフェイスとしたバーチャルスペースとして意識されており、バーチャル世界という特定の場所から「睨み」まれてます。このことが、現在の様々な問題を引き起こしていると言っていいでしょう。

中二病といった症状は自己反省が袋小路になっている精神構造ですが、「睨み」がバーチャルにこうすることで、中二病を加速化させていることは間違いありません。自閉症スペクトラムの症状が近年飛躍的に増えていることも、この袋小路状の自己反省精神(ポストモダン)がもたらしていると熊谷晋一郎先生も述べています。

抗体としてのドラマトゥルク

ドラマトゥルクという仕事は、「睨みの社会構造」を緩和するために登場したこうたいの免疫抗体として現れたようなものです。実際「睨み」は悪い側面だけではありませんでした。ホップスのリバイアサンでも恐怖で人民を校則する一方で、秩序をもたらす側面があります。睨みをきかせた演出家がいたときは、秩序がある種内面化されていることから、演出意図、つまり物語の方向性は確認をとらなくても一同に共有されている、もしくは、自分と関係ないところは無視しても組織が運用できるからです。しかし、睨みの社会構造が無くなると、周りのに再確認を頻繁にとる必要があり、また、自分の役割と関係ない役職まで理解していないと、後ろ指を指されかねないのです。簡単に言うと、学校でイジメられている人がいたとして、これまではイジメは睨みがきちんと効いていないのだから起きている問題ですから、先生と当事者同士で解決すべき問題で、睨みの効かせていた責任者が解決すべき問題でした。現在は団体に属している限り、イジメに対してクラス全員で対応する問題で、第三者であっても関わることが義務づけられています。民主制が進む中で、このような変化は避けられないものとなっています。このようなことから、睨みの元となるおおくは演出家の仕事は、分業化がすすみ、新しい仕事が登場しました。ドラマトゥルクと同時期に現れた役職として、対話型鑑賞におけるファシリテーターがあります。ドラマトゥルクとファシリテーターはほぼ同じ役職です。ファシリテーターは個々の意見を引き出して、議論を効率よく進めること、つまり、全体を民主的に取りまとめる役割です。

ドラマトゥルクの役割と社会変化

私は、これからの舞台芸術では、演出家もドラマトゥルクの一つの役割となって、組織に参加する全員が個々の「得意」をベースにドラマトゥルクとして働くのではないか?と考えています。シンポジウムの質問として投げかけようかとも思いましたが、積極的な学生の誠意を尊重して、質問は控えました。

メディアトゥルグの役割

一方、私が表明するメディアトゥルグは、ドラマトゥルクと同様、軍師には違いませんが、メディアを取り入れることで円滑に進行を進める役割です。会議において、ホワイトボードは5人から30人程度に効力を発揮しますが、50人以上であれば、Zoomのようなビデオチャットの方が有効でしょう。状況に合わせてメディアを提案するやり方で、これはファシリテーションとはやや異なります。道具があれば物事がスムーズに進むという考え方に基づいて、状況に応じて適切な道具を用意していくのがメディアトゥルグの仕事です。メディアトゥルグもシンポジウムができるくらいメジャーになってほしいものです。

今日のセッションも楽しみです。

むかし、とくに戦前では言いわけは禁物であった。何か言うと「言いわけ」するなと怒鳴られ、若い私などはずいぶん口惜しい思いを重ねたものである。戦後は、みんな口が達者になり、同時に、言いわけが悪いという風はうすれていった。むかしは言いわけしなくても、「偉い人」がにらんでいれば、誰それはどういう性格で、どういうことをする人物か、まずはお見通しであったようである。戦後の社会では、そういうにらみの利く人物は減っていった。にらみの社会ではなくなったのである。したがって、めいめいが、それぞれの時に、自分というものを提示しなければならない。アメリカなどでは、自分をセールスしなければならない。日本はまだそこまで行っていないのか、それともアメリカとは別の道を歩みつつあるのか、今は言いわけの社会、釈明の社会となった。

多田道太郎「日本語の作法(1977)ことば尻」から
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