辻本佳の作品「模」について

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

THEATRE E9 KYOTOで上演された辻本佳の作品「模」は、ダンサー自身がAIを活用しながら3Dプリンターやネットワーク構築まで、これまでメディアアートの専門エンジニアが担ってきた領域を一から手がけた作品である。さらに制作過程をインスタグラムで日々ドキュメントとして公開し、SNSと連携することで舞台上にとどまらない新たな創作のあり方を提示した。

https://share.google/IqG7OfpUw1nz2xQpZ

THEATRE E9 KYOTOで辻本佳の作品「模」を観た。55分ほどの作品で、いくつかのシーンに分かれている。会場には自作のアクチュエーターが配置され、段ボールのスティックで物を叩いたり、壁に張られた紙にドローイングをしたりと、小さなロボットたちがあちこちで様々な動作をこなすステージだ。会場には段ボールが多数置かれており、これらのロボットとダンサーが何らかの関係を持っていることはわかるが、その繋がりが一見して読み取りにくい作品である。

辻本のダンスは、だいぶ以前に芸術センターで観て以来となる。近年はドラッグクイーンショー以外のコンテンポラリーダンスを観る機会がなかったのだが、さすが豊富な舞台経験と強靭な身体を持つダンサーだけあって、そのダンスは素晴らしいものだった。体の外側に点や線を想定し、あらゆる部位を駆使してそれらの幾何学模様を追っていくだけでなく、動きの質という点でも、震えるほどの極度な緊張から一気に脱力するまでのグラデーション、時には様々な表情にフォーカスするシーンも交えながら、それらがコラージュのように構成されていた。

日本のダンス作品における「読み解き」の慣習

これまでの日本の舞台ダンス作品は、ステージ上に置かれたものをテキストとして読み解くというスタンスが基本であり、ものの配置や動きといった要素から観客が自由に意味を受け取るという形が一般的だった。また、作品の裏側にある仕掛けにはあまり触れないというのが、ダンス界の暗黙のルールとして定着してきた。これは日本特有の傾向といえる。

一方ヨーロッパでは、新しいソフトウェアが登場するとその数ヶ月後には早速それを使ったパフォーマンスが行われ、仕掛けを正面から取り込んで作品化するというスタンスが根付いている。その場合、舞台裏で動くシステムはむしろ表に提示され、その可能性を観客とともに検証するという側面がある。こうした文化は日本にはまだあまり浸透していない。

DIYロボットと舞台作品の歴史

「模」にはDIYのロボットが多数登場するが、ロボットを用いて舞台作品を構築するという試みはこの20年近くで多く見られるようになった。そうした作品では通常、ロボットエンジニアが参加し、エンジニアとダンサー・演出家がコミュニケーションを取りながら制作を進める。ただし、その際に動くシステム自体が深く検証されることは少ない。先述のような「新しいアプリケーションを即座に舞台へ」という試みは、主にアートフェスティバルのスピンオフ的なイベントや、大学の研究室による発表の場で行われることが多い。

一人で全てを担うことの困難と可能性

制作・設置・操作のほぼ全てを一人でこなす場合(一部照明のみ他者の協力を得るとしても)、パフォーマーは踊りながら同時にシステム全体にも気を配らなければならない。トラブルが発生した際には「踊りを優先するか、修理を優先するか」をその場で判断しながら動く必要がある。結果として、ダンスパフォーマンスとしての動きのレベルが落ちてしまうのは避けられない。これを作品の一部として受け入れられるかどうかが、おそらくこの作品の評価における核心的な問いになるだろう。

比較として、梅田宏明のようなアーティストは、袖に置いたノートパソコンのスタートボタンを押してからステージに上がり、全てを一人でこなすパフォーマンスで知られる。ただし彼の場合、アクチュエーターをステージ上に置くことはほとんどなく、完成された映像や確実に動作するセンサーを用いてビデオ映像をコントロールするという手法を採っている。これはパフォーマンス中にトラブルが発生しても本人が対処できないという現実的な制約によるものだ。

一方、真鍋大度を中心とするライゾマティクスのパフォーマンスでは、多くのエンジニアがロボットやネットワークシステムを手分けして担当することで、パフォーマンスもインスタレーションも高い完成度で実現されている。さらにダムタイプにさかのぼることもできる。この場合も、役割分担は明確でありながらお互いの厳密な技術情報はパフォーマとは共有されない。

こうした完成度の高いメディアパフォーマンスに慣れた目からすれば、「模」にはその側面における物足りなさを感じるのは無理もない。しかし、評価すべき重要な点はそこではない。

新しい読み解きの枠組みへ

こうした視点に立つと、「ステージ上に置かれたものだけをテキストとして読み解く」という従来の日本的な解釈方法では、この作品を正当に評価することはできない。むしろここで評価されるべきは、完全な実現には至っていないとしても、SNSで発信さえれた様々な試みの積み重ね自体が一つの知性として立ち上がっているという事実であり、それらもパフォーマンスの一部としてとらえる必要がありる。辻本の作品はその先駆けといえる。

https://www.instagram.com/keitsujimoto/?hl=ja

今後、このようなパフォーマンスはますます増えていくことが予想される。逆に、大きな予算と多くのスタッフを投入した大規模なパフォーマンスは、相対的に少なくなっていくだろう。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

SNSでもご購読できます。