移行期の真っ只中で振り返る25年の歩み:過去と現在の私

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先週のオープン倉庫に向けて作業中にかいた文をアップします。

人生の移行期を振り返る

誰もが同じような経験をしますが、私は今、人生の移行期の真っ只中にいます。25年前、YCAMに就職する前の1年半、そしてその前は中高一貫校で6年間通った学校から離れる高校3年の1年間、生活環境が大きく変わる空白の時間がありました。その感覚を今、思い出しています。

京都での移行期:コンクリートブロック工場

25年前、私は京都に住んでいました。選べるほど仕事はなく、残業がなく定時で帰宅できることから派遣会社で働くことにしました。高収入の広告文句とは異なり、収入は極端に少なく、ヘルメットや安全靴のレンタル費で天引きされ、フルタイムで働いても月10万円を超えることはありませんでした。

一番多く通ったのはコンクリートブロック工場でした。ベルトコンベアーから出てくる生暖かいコンクリートの品質をチェックし、割れているものがあれば取り除く作業でした。その工場で一緒に働いていた、若いとは言えない独身男性は、毎日昼食にカップラーメンを食べていました。彼は無口で仕事以外の話をしたことはありませんでしたが、見た印象から家族はいないようでした。自分と同じ仕事なので月収は10万円にも満たないでしょう。当時私は彼に自分の未来を重ね、将来への不安を感じました。

横浜での移行期:広告代理店

そのコンクリートブロックなどの派遣会社は1ヶ月余りでやめ、横浜に移り、友人Hの仕事を手伝うことになりました。横浜を中心に複数の店舗を経営する彼の広告代理店でした。行ってみると、母体が大きいので中途半端な仕事をしていても給料が出る仕組みになっており、Hは昔からいる社員を解雇したがっていました。

ちなみに、当時、低価格なデジカメが販売され(たしかニコンF5)、店舗撮影後その日の夜には写真をコンピューターに取り込んで翌朝には入稿できるようになったのもこの時だったし、仕事を始めたころは、印刷屋の営業のおじさんが毎日色校をもって会社に来ていたが、デジタル入稿が始まったのもこのころで、一年後にはデジタル完全入稿が始まった。自分が行ったわけではないが、別のデスクで明細システムがインターネットで入力更新するエクセルのシステムが作られていた。これは余談だが、隣のデスクには、のちのアジカンの後藤さんがFlashのプログラミングをやっていて、数か月後には、メジャーデビューが決まり退職していった。退職後みるみる有名になった。歓送迎会で、声には自信があって、声量がありすぎてマイクの音が割れると話していたのを覚えている。

私は真面目に働いたので成績が良く、他の職員に煙たがられました。半年もしないうちに、社員たちは謎の抗議活動を始め、私も目の前で見ていましたが、社長Hに「自分たちを選ぶか私を選ぶか」と辞表をちらつかせました。社長Hは「待ってました」と言わんばかりに社員全員を解雇し、翌日から新規スタッフの募集が始まりました。

私は友人の役に立ったとも、うまく利用されたともいえますが、その後は仕事環境が良くなり、チラシデザインだけでなく、内装デザイン提案など業務的にも大きくイノベーションを実現しました。
1年働いて、YCAMからお声がかかったので転職願いをH社長に告げると、快く送り出してくれました。こうして私は山口に移動しました。

この移行期の一年は、派遣会社では、いわゆる低所得層の末端を垣間見て、広告代理店では、保守的な会社体制からイノベーションまで幅広い経験をしました。ことの期の経験はのちのYCAMでの仕事に生きていると思われます。

現在:自分イノベーション

さて、現在の私といえば、以前は毎日優秀な仕事仲間であり友人に囲まれて働いてきた20年を経て、今は京都で一人その代わり家族と過ごす時間が大幅に増えた。京都ではメディアアートの分野は乏しく、舞台芸術も20年前と比べて活発ではない。京都のようにある程度の人口がいて、コミュニティが分散している環境で、何を始めるべきか悩んでいる。一般企業への求人応募では自分の経歴では全く評価されず(もしくはどのように評価したらよいかが分からないだろう)、京都での自分の評価額は時給1,400円程度だ(東京に呼ばれる時はインストーラーの一般的な価格なのでもっと高額である)。新人アーティストというには年齢が行き過ぎているのでアーティストレジデンスなどのオープンコールはほぼ採用されない。これらに向き合う日々であり、自分のイノベーションを連続的に起こすための日々である。

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