

先日、比叡山延暦寺を訪れてきました。前回訪れたのは1995年、高校3年生の時に自ら企画した修学旅行「悟り・修行コース」以来のことです。今回は天気に恵まれ、桜も満開でハイキング日和。ロープウェイで山頂へ上がると、やや肌寒さを感じましたが、根本中堂と西塔周辺をゆっくりと散策しました。
根本中堂は修復工事中でしたが、他のお堂はほとんど25年前のままの姿で佇んでいました。特に釈迦堂は、当時3000回「南無釈迦牟尼仏~」と唱えながら歩く行や座禅を体験した思い出の場所です。印象的だった緑色のパンチカーペットも、四半世紀を経た今もそのままの姿で残っていたことに懐かしさを覚えました。
道路の舗装が進んでいたり、見たことのない石碑が増えていたりと、細かな変化はあるものの、全体的な雰囲気はほとんど変わっていません。

十二年籠山行の思い出

釈迦堂の横にある浄土堂も昔のままで、そこで十二年籠山行を実践されていたお坊さんのことを思い出しました。十二年籠山行とは、12年間そのお堂から外に出られないという厳しい修行です。正確には、毎日のお経と掃除の義務があるため、それらのお勤めに間に合う範囲でしか外出できず、結果的にお堂から出られなくなるというものです。
当時お会いしたお坊さんは2回目の修行中で、14年近くその寺を出ていないとのことでした。18歳だった私たちにとって、そのお坊さんとの対話は貴重な経験でした。修行中はテレビ・ラジオ・新聞といった情報に触れることが許されておらず、世間の出来事からは完全に隔絶されていました。さらに親族に会うことも許されていないため、14年近く親に会っておらず、「親の顔も思い出せない」と仰って、初対面の学生の前で涙されたことが心に残っています。まるで別の時代から来た日本人と話をしているような不思議な感覚でした。
若き日の座禅体験
修学旅行中は毎朝座禅を行っていましたが、釈迦堂での座禅中に一度だけ特別な感覚を体験しました。自己意識が拡張され、建物と一体になったような感覚で、屋根の上にカラスが止まる様子が、まるで自分の肩に止まるかのように感じられたのです。
今振り返ると、このような体験は若い頃にしかできないのではないかと思います。この感覚は、外に向かって想像力を逞しくするというよりも、自分の内側で起きていることを静かに観察し続けることから生まれます。集中して自分の内なる声に耳を傾けていると、外側の世界も自分の身体の一部のように感じられる現象が起きるのです。こういった深い気づきの体験は、おそらく若い時期に経験できないと、大人になってからは獲得できないかんかくなのではないでしょうか?根拠はないのですが、暗記術などは岡清いわく若いころにできないと一生できないと書いていました。
自由の森学園の修学旅行―比叡山修行体験
自由の森学園の修学旅行は学生自身が企画し、十分な人数が集まれば実現するシステムでした。定番コースは沖縄と北海道で、基本的にはレジャー志向でした。しかし私は、18-19歳という思春期であり社会人と
な時期だからこそ、高校生でなければ企画できないようなコースの方が意義があるのではと提案しました。正直なところ人は集まらないだろうと予想していたのですが、予想外に真面目な生徒たちが集まり、実現することになった旅行でした。
物理の伊藤先生が天台宗のお坊さんでもあり、先生のコネクションで比叡山を訪れることが決まりました。出発前から仏教についての勉強会や座禅体験などを重ね、徹底した準備を行いました。1週間の旅程で3か所のお寺に滞在し、説法を聴き、座禅や写経、掃除に励むだけでなく、千日回峰行の体験や五体投地などテレビでしか見ないような修行体験も行いました。天台宗なので大乗仏教ですが、本格的な比叡山での修行コースを体験できたのです。
帰る頃には参加者全員が畳の上で座布団なしでも長時間座れるようになり、般若心経を暗誦して読み上げられるようになりました。意外にも、この時の経験が今日の私どこかに息づいています。
再び
四半世紀ぶりの比叡山訪問は、特に発見も何もありませんでしたが、自宅から毎日見える山なので、次はハイキングコースで行ってみたいと思います。