私たちは、前回の視覚の問題についてもう少し深く掘り下げてみたいと思います。
前方の風景(aの視覚)とテーブル上の視点(bの視覚)がどのように認識されるかを考えてみましょう。
図aの視覚は様々なものが重なって見え、その視点はその場にとどまっているなら、ほとんどのものは横へ流れる。図bの視覚は斜め上から見下ろし、関係性を確認する視点です。
カメラで撮影する際も、人物と同じ視点で撮影するのと、やや上か撮影するのでは受ける印象が異なります。しいて言えば俯瞰はの方が関係性が強調されます。
直線的な世界と非線形の自然
私たちは、直線的な壁に囲まれた家に住み、線形の世界で生活しています。外に出れば、道路はゆるやかに曲がっていても、曲線的な建物は実験的な建築物を除いては稀です。このように、私たちの日常は、学校で学ぶ遠近法の原理のように、直線と角度に基づいた理性的で整然とした景観に満ちています。
しかし、森の中を見てみると、そこには直線的なものはほとんど存在しません。送電塔のような人工物を除けば、自然界は曲線と無秩序で溢れています。山道は直線的につないだ最短ルートではなく、時には大きな迂回をして至ることが最も効率的なルートとなることもあります。森の中は、このように非線形の世界です。人間は、元々は森に暮らす生き物でした。そのため、非線形な世界を認識する能力が備わっているかもしれません。
例えば、デビッド・ホックニーの写真コラージュは、この非線形な視覚を示唆しています。私たちは、視点を自由に動かし、意識を集中させたいところに焦点を当てます。この視点の自由さは、遠近法で言う消失点を無視し、動物も同様に、特定の部分に焦点を当て、その他は周辺視野に置いています。セザンヌの作品に見られる山やオレンジのエッジを集中的に塗り重ねるアプローチも、この観点から理解することができるかもしれません。
3DCG: 線形的世界
3DCGの世界では、全てが座標計算により構築され、物事は線形的に表現されています。この世界では、全てのオブジェクトは原点(0の点)からどれだけ離れているかで位置が定義されます。私たち人間は、3DCGのように数値とベクトルで物の位置関係を完璧に捉えているわけではありませんが、日常生活においても似たような俯瞰視点を持っています。たとえば、人との適切な距離を取ったり、車を駐車する際には、無意識のうちに周囲の物体との位置関係を把握して行動しています。
実は3Dの世界では、Z方向を奥行きで表現する場合と、高さを表現する場合とあり、ようとで異なります。自分より大きな物体を扱う場合などはZ方向を奥行きで表現され、小さな物体は、高さをZ方向に設定する傾向があります。なぜ、このように分かれてしまっているかといえば、先に述べた図a,bの立場で異なっているからです。3DCGの現場では素材のZ方向が混在している場合があり、クリエイターは苦労します。
AIの限界を議論する際によく引き合いに出されるのが「フレーム問題」です。フレーム問題とは、AIがある行動を実行しようとした際に、その行為に関連するあらゆるリスクを考慮しようとすると、結果的には何も行動できなくなってしまうという状況を指します。これに対し、人間は全体の状況を俯瞰しつつ、対象物との相対的な関係を把握し、必要な情報だけをピックアップして詳細に計算することで、効率的に行動を決定します。このように、人間は、直線的な思考と非線形的な思考を使い分けることで、フレーム問題を回避し、効率的に行動を決定することができます。
線形と非線形視点の共存
図b視点はそもそも手が自由になった際に、獲得した視点です。森の中で動物として暮らしの山を駆け回っていた際は、非線形的な世界で世界を見たいたはずで、線形的な人になって手が使えるようになった際に獲得した視点でしょう。私たちは元々持っていた非線形の視点に必要に応じて、線形的な俯瞰視点を取り入れて解釈しているようです。前回の話題にふたたびもどりますが、手話では大きく分けて二つの表現スタイルがあります。一つは、等身大のジェスチャーを使う方法で、もう一つは、胸の前で小さな空間を作り出し、ミニチュアのようにスモールサイズで表現する方法です。これらのスタイルは、しばしば組み合わせて使われますが、人々はこれらを違和感なく理解ししています。手話のこのような多様性は、二つの視点を普段から同時に処理していることを表しています。
第三の視点として、レーザー3Dスキャナーは、レーザーを照射してオブジェクトの表面を走査し、その情報をもとに立体的な形状を再現します。レーザーが均等に当たった場所ほど、より正確で滑らかな物質が再現さます。VRヘッドセットを使ってVRの世界で物の形を認識しようとする際は、解像度の問題やオブジェクトの表面がシンプルすぎて、形やサイズが分かりづらいことがよくありますが、自分から動いて様々な角度から見てみると、物の形状がよく分かってきます。これはレーザースキャンのそれに似ていて、自分の動作も含めて、対象物との距離などからその形状を理解しているのです。
画家、諏訪敦は、大野一雄の肖像画で知られています。私は彼のドキュメンタリーで見たのですが、肖像を描く際に対象者の頭を両手で包み込むように触れていました。この行為は、単に視覚だけでなく手の感触を通じて骨格や形状を理解するためのものです。画家にとって、触れるおとも、物体の質感や形状をよりリアルに捉えるために時には必要ということです。このように、行為と見ることは一体なのです。
全くまとめではありませんが、今一つ読んでいて理解にっ苦しむのですが、ギブソン「生態学的視覚論」は行為と見ることは一体といったことを言いてます。
あと、これもなんかよくわからないのですが、大森荘蔵「新視覚新論」といういうのがあって、パラパラ読んでいると面白いんですが、結論的に何が言いたいのかよくわからない文献があります。
たぶん大森はかなり極点な立場なので、バランスがいいのはメルロ=ポンティ「眼と精神」があるのですが、これもどうも難解。