自由の森学園: 自由教育の中で咲いた異色のパフォーマンスアート

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高校生の時のパフォーマンスをいくつか思い出したので、書き留めます。

自由の森学園とパフォーマンスアート

私が通っていた高等学校、自由の森学園は独自の自由教育を謳う学校で有名です。ただ偏りもあって、音楽の授業は、音楽理論や音楽鑑賞は一切行わず、すべて合唱の授業で、特に高等部では祖国をたたえる歌や自由のために戦うといったものをテーマとした曲を音楽教師が好で選び、教えており、生徒もそれを喜んで受け入れていた。例えば、「ケ・サラ」は社会活動家を参照するうたですし、フランス革命の歌としてレミゼラブルの「民衆の歌」、などが人気がありました。合唱はその歌の意味とは別に、全体主義的な雰囲気を作り出す装置として、近代国家が取り入れていたツールであることもあって、無批判に合唱を行うことに対して私は批判的な立場を取っていた。

また当時、私はローズリー・ゴールドバーグの『パフォーマンス』を熟読していたことから、新しい芸術思想は様々なアーティストのグループによって提示され、その思想は初期の段階では必ずパフォーマンスという形式に結集し活発に行われてきたとい歴史的な背景からパフォーマンスを重視していました。

スパゲティのパフォーマンス

毎日パフォーマンスをすると決めて、色々やったシリーズの1つのはずだが、場所は昼食時の食堂の前で、確か前半はさくらいこうすけくんとビートルズの曲をカセットテープで再生しながら、分解し、テープを無理やり引っ張り出してノイズを出していた。

次に、大盛りのミートソーススパゲッティーにプールに飛び込む要領で、顔面からスパゲティに飛び込むというものを計画していた。

前半でいい感じに客が集まって、続いてスパゲッティに飛び込んだ。終了の予定だったが、人が集まりっており、さくらいくんもノイズをノリノリで出していたこともあって、続いて汚らしくスパゲッティーを食べ散らしてしてみた。するとどんどん人が集まり、ますます引っ込みがなくなったので、もうネタがありませんという意味で、とりあえず着ているものをすべて脱いでみた。実際に人だかりの中で「もっとやれ !もっとやれ!」 とさかんに煽られたので仕方がない。食事中にそれを目撃した人はショックだったらしく、泣き出す人もいたそうだ。(このパフォーマンスはビデオ記録があるはず。)

目覚め

毎日行うパフォーマンスの関連企画として、登校時間にバス亭に到着するとベッドが置いてあり、そこに自分が寝ているといパフォマンスを実行した。きちんと寝てないとおかしいのでかなり早朝からベッドを用意してそこで寝ていた。

自殺した少年のパフォーマンス

朝登校すると校舎の様々な場所に、首を吊っている人のシルエットが展示されている。建物の高い壁面に設置されたこれらのシルエットは、黒いビニール袋で作られている。この設置のために特殊な装置創作し、学生寮の壁面で設置の練習をし、誰の目にも触れないように、夜明けと同時に、校舎屋上に潜入し、合計6~7体のシルエットを設置しました。この行為はすぐに学校中で話題となり、作品には名前が直接記されていないにもかかわらず、教師たちは私を見つけては苦情を述べました。特に印象的だったのは、実際に自殺現場を目の当たりにしたことがある教師が、非常に激しく私を叱責したことです。

私学フェス

埼玉県の私立高校が集まって、得意とするパフォーマンスを見せ合うというイベントで、確か所沢のホールで公演された。当高校は和太鼓や剣舞のあと最終的には合唱でまとめる。どういう流れで自分がパフォーマンスを引き受けたのかを忘れたが 薩摩琵琶 の演奏をすることになった。そこで 段取りとしては普通に 古典曲をやることになっていたが、秘密裡にゲリラ的な演出を取り入れことを計画した。演奏途中で分かりやすい黒ニットマスクのゲリラの格好をした男たちが客席から乱入し、楽器を取り上げ、後に髪の毛を丸刈りにするというパフォーマンスを行った。何のメッセージ性もない、アナーキズムという意味合いだけのパフォーマンスであった。こうしたパフォーマンスを行うにあたっても、年密に練習をしており、演奏曲のどこで乱入するか、痛そうに見える蹴り方など練習を行っていたことを覚えている。

卒業式の葬式パフォーマンス

大脇の葬式をテーマに、卒業式の中でゲリラ的に葬式を行うというアイデアのパフォーマンスだった。自分が9期生ということもあり、自由教育としてセンセーションを起こした学校も9年続き、活動的にも思想的にも収束感が始まったと感じていた。自分のような批判の立場というものはここで終わるのではないかという意味もあった。これらは感覚的なものだったし、話し合いというものは「強い意見にまとめあげられてしまう」という問題提示の立場としては、当時の考えでは突然死の方がいいのではないかとも思っていた。

そこで卒業証書授与の途中で血を吐いて倒れた私は、突然、御棺をかついだ6人の生徒によって荒々しく御棺の中に詰め込まれ、そのまま式場の間中放置されるというものだ。そして運び出すタイミングが重要なのだが、式のメインイベントの全校生徒によるワーグナーの「巡礼」が歌われる中で、厳かに御棺が運び去る予定だった。しかし当日は予定通りにはいかず、運悪く体育教師の前の席だったことから、御棺はがっちりと体育教師たちに取り抑えられた。結局は卒業生が退室するまで待つこととなった。体育教師たちは御棺のなか私にもうやめろといい、しかしここで起き上がるわけにもいかず、御棺をかかえる6人とともにじっと小さくなっているより仕方なかった。式も一時中断したし、気持ちがいいものではないので、不快に思う方も多いとは思うが、人生もそんなもんと思っていた。現代だとSNSで炎上するのだろうからこうはいかない。

パフォーマンスのモチベーションとその意味

自分が卒業後の卒業式で、挑発的なメッセージとともにピアノの上に乗って足で演奏するような派手なパフォーマンスを行う卒業生もいると聞きますが、自分の場合は先に述べたように、衝動的なものではなく、計画的に行われており、複数の協力者をつのって行っている特徴があります。

特に、自由の森学園では、正しく民主制が実行され、話し合いを通じて問題を解決する文化があった。一方合唱が好まれ、大多数で歌ってしまえば一体感と高揚感が得られてしまう、全体主義的な思考に対して異議を唱えるためにパフォーマンスを中心に行っていた。

実際問題として、合唱を嫌う生徒も少なからずおり、彼らは目立ったところには出ていかず、合唱でも小声やの口パクでやリ過ごす連中とも親しかった。私は一見、学園祭実行委員長などの役割も担うメジャー側のポジションであったが、マイナー側からメジャー側を批判するポジションでもあった。当時はあまり良い意味では使われていないオタクと呼ばれるマイナー側にも友達が多く、両者を行き来していた。当時からマニアックメジャーだったのだ。だからと言って、仲介役になるわけでもなく、現代美術の美学を手本に、ほぼ捨て身のパフォーマンスをおこなっていた。当時はアーティストとは異形のサクリファイスだったのだ。

現代はこのような単純な対立的な思想が無いし、やはり自由の森という閉じた実験社会のような環境だから出来たのだろう。今のような複雑な社会で当時のようなパフォーマンスを実行するのは難しい。

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