技術,地図,思考/空間と時間をつなぐ関係線

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地層の下に流れる意図

ダンスが芸術であったことが今日まであっただろうか?

ダンスの起源は祭り、夜明けまで踊り続ける儀式にある。表現とは別の運動活動を想起するかもしれないし、神に奉納するための動物の身振り、幾何学文様、見立てた造形、身振りなど、なぞろうとするものを想起する。

現代において大自然や神といったプリミティブな意識は次第に薄れ、それらに取って代わるように、環境や自意識といった概念が生まれた。しかし、言葉が変わろうとも、本質的なプリミティブな意識は変わらず、人間はどうしようもなく大きな何かに挟まれた身体を何らかの形で確認する必要があった。

儀式を行う身体が身体表現へと変わり、劇場という場所に限定し、そこで行うために再現可能な動きの連なりとしての芸術へと形態を変えていく。しかし本来、再現性は身体表現の本質ではない。人間はロボットのようには同じ動きを繰り返せないことはとりあえず括弧に入れ、表現の共有の問題を解決するために、ダンスや演劇の設計には、振付けや脚本といった演者への指示書の作成によって考察されてきた。これらの作家の構想は、振付・脚本といった設計図を元に、表現を実現する演者は設計図の読み取り方を勉強しなければならない。そしていかに深く読み解き実現するかが演者の力量となる。役=主体を脚本=設計図を通じて、作品の構想という地層から、その地下に流れる意図としての水脈を当てはめるような考察は、日々の技術更新とともに発展すべきである。

意識の外部化としてのインテリジェンスマップ

古来からの地図といえば、空を舞う鳥の目として創造され、山や谷といった地表面と、建物や道路などの人工物を、平面図の影として転写したものである。この地図を読むということは、図から現地を想像するだけではなく、現地を観察した部分の情報を、広い範囲の中で全体的に現象について考察することで、新しい視点での問題を読み起こし発展させることを可能としてきた。

一方で、地図は領土という問題から国家の発足を助長し、ときには戦争の道具として大きく発展してきた。その技術は現代では一般のものとなって、カーナビゲーション(以下、カーナビ)や携帯性に優れたスマートフォンと、現在地から目的地までの動的なナビゲーションを実現し、今やスケジュール帳と同期、インターネット接続により目的に合わせてインテリジェントにナビゲーションできるようになった。

この外部化された地図は、例えばカーナビの導入によって地図を覚えなくなり、効率化を押し進めるあまり人間の能力を低下させかねないことを指摘し、これらの技術を人間の能力を飛躍させるための道具として使う方法を検証したい。

本文では、平面図として記述された従来の地図と、デジタル技術で拡張された地図とを分けるために、後者をマップと呼ぶこととする。

従来のマップおよび地図の使い方を考えてみると、車の運転中には地図を確認できないため、ある程度覚えて運転していたことから、地図は目的地までの道筋を分かりやすく表記し記憶にとどめるためのデザインを取っていたといえる。

別の条件で考えてみる。もし山中で周りは樹に取り囲まれ、進めども景色は変わらず、GPSで現在地を確認しても、手がかりとなる物がなく、ただ広い森だとする。ナビゲーションの示す方角に進めども、目的に向けての変化が感じられない。このような場合、その森の経験者と共に歩かない限り、自身の行為に確信を持てず、不安のまま進むことになろう。これと比較して、樹が一本も生えていない禿山であれば、景色も広がりルートも明確でマップも特に必要がなくなるであろう。つまり地図およびマップの本質は、目的地までの見通しこそが全てであるといえる。

見通しとは目的地までのプロセスをどのように創造するかに由来する。森中のナビゲーションと禿山のそれとの違いについて考えてみる。カーナビ式は見通しを外部に任せてしまい、プロセスのヴィジョン化、つまり他の道の存在や空間を構成する要素といったもの自体をユーザーが行っていない。一方、禿山での場合は、いくつかの道筋の中から主体的にヴィジョンを受動し、自分の確信を持つ必要がある。この主体的受動は確信や責任を背負うゆえに、行動のモチベーションに大きく影響を与えている。

カーナビ式インテリジェンスシステムにおいては、この受動的に外部化すると同時に、責任や確信というものも付随して外部化してしまい、結果として行動の責任の所在すら外部化しかねないこと、またこの外部化によって、行動のモチベーションが均一化されてしまうことは重ねて指摘する必要がある。

マップにおけるインテリジェンスシステムは、戦争やスポーツにおける戦略家が計算機に置き換わったものだといえる。サッカーに限定して考えてみると、インテリジェンスシステムの成立とは、戦略家がマップを囲んでボールのパスのパターンを割り出し、膨大なパターンのデータベース=マップの作成であったであろう。現在のスポーツ公式の試合ではフィールドへのスマートフォンの持ち込みは許可されていないが、戦争では既に使われている。ここで問題になるのは、外部化されたインテリジェンスシステムを活動の範囲に持ち込んだ場合、空間のヴィジョンが外部化されることで、マップを使用する各自の創造性およびヴィジョンの欠落と、外部化されたデータベースと外部化されたマッチングシステムに頼るということであろう。

戦略マップと現場マップ

これまでの戦略会議で使われてきたような空間の客観視のために距離関係をベースとした図表は、一つの近代的な意識の象徴的スタイルと言ってよい。しかしこれは、一般的に理解されている五感から欠落もしくは極端に鋭敏な—たとえばヘレン・ケラーのような知覚の持ち主にしてみれば想像すら不可能な意識であろう。彼女のような例を考えるとき、受動性の問題がモチベーションと知覚にも影響を与えることに考えが至るだろう。また知覚から環境を読み解く回路の問題にも配慮しなければならない。

コンピューターは膨大な情報のマッチングといった演算処理には大いに力を発揮するが、情報を読み解く際のアルゴリズムの生成システムといった「システムの外側に出るようなシステム」を含む意識を持つことはできない。言い換えると、意識の外部化を目的として地図のコンピューター化によって生まれたインテリジェンスマップは、マップを生成するインテリジェンスそれ自身を、自身のマップ=システムから外部化することができないということだ。

外部化したシステムは人間の能力を拡張し加速化させるために機能すべきである。先述のような外部化されたマップ=システムと付き合うには、人間の能力、特に直感と想像といったシステムを逸脱する批評能力を再認識する必要があるだろう。サッカーのような組織的に動くゲームは、チェスのようなパターンの集積ではなく、むしろ粘菌のような、個々は独立し受動的に動きながらも組織的に働くモデルが望ましい。たとえば、空間を囲碁のように密度として捉えたらどうだろう?選手同士の距離を濃度として捉え、関係の密度が薄い所にボールをパスできれば、ボールを取られる可能性は低くなる。このような方法なら、パターンの解析に検証不可能な問題を抱えていたり、限界数を超える可算無限に等しい解析数がある場合でも、全員が組織的に動けるはずだ。

刻一刻と変化する場および環境を捉え、そこからどのように行動へと移すか。

DescriptionとPrescription

環境を捉えることについて、ここでは出来事の記述をdescription(記述)という用語で呼び、計画をprescription(処方)と呼ぶ。環境をdescriptionした瞬間、それはただちにprescriptionとして未来の設計となる。身体は常にdescriptionとprescriptionの中間に存在するといえるだろう。多角的なscript(スクリプト)の生成として踏まえることで、ヴィジョン=未来像を想像するエンジンとして駆動させることができる。これがマップを読み取るヴィジョンの核となるエンジンとして位置づけられる。スポーツは(勝敗やゴールへの到達といった)宿命と戦うことが運命づけられているから、このとき運用されるマップはつねに未来に—それも現在から宿命に到達する以前までの近未来に投影されるものを指す。しかし、芸術においては予め決められたスクリプトを実行するものがほとんどで、即興芸術以外の芸術は全てスクリプトを実現するためにマップを使う。

注意する点として、descriptionを「歴史」として読んでしまうと誤解の危険がある(図A)。歴史は常にストーリーであるから、常に行為の時間的な連なりを指し、過去に経過したものを線で繋ぐ思考作業をベースとしている。descriptionは記述でしかない。そこに記述されたモーションは並列に存在し、モーションとモーションの連なりは非決定のまま複数のストーリーを孕んだ状態として在る。description自体はストーリーを読み取るために使うこともできるが、映画の制作におけるスクリプトとしてこれを捉えてしまうと、過去を読むために未来にもストーリーの持つ時間的な構造をも投影してしまうこととなる。

descriptionを複数のストーリーを孕むものとして扱い、prescriptionとの間に主体としての身体を置いたとき、未来はprescriptionから立ち上がるヴィジョンとして未来に向かって投げ出されるイメージである(図B)。これは懐中電灯で闇を照らした際に、照らした明かりの下に一歩踏み出すと、同時にその先を照らしてしまうようなものである。

身体表現にはストーリーを読ませる演劇、動きを読ませるダンスがあり、一方で運動を観るスポーツがある。これらの場合において、鑑賞する際にもそれを実行するアクターも、読み取るべきマップが存在するはずで、鑑賞者が運動をどのように捉えているかを細かく解体してみると、以下のように分けることができるだろう。モーション、トーン、ムーブメント、フィーリングである。

モーション(動き)は動きの状態を表し、トーン(色調・張り)は力の状態を表す。ムーブメント(運動)はモーションとは異なり、行為を含んだものを表す。ふだん、意識に上る動きは大半がムーブメントで、モーションとトーンは注意しないと見えてこない。ムーブメントと同じくらい見えているのがフィーリング(感情・雰囲気)である。フィーリングはトーンに近い感覚で、エモーション(気持ちが動いた状態)は行動・行為の組み合わせから読み取られるもので、このムーブメントとフィーリングが読めないと日常生活が困るのは確かである。

スポーツ観戦においてはこの二つ、特にエモーションが観られれば十分に楽しめるし、この二つが分かりやすく成立すれば一般的には良い試合とされる。

芸術の鑑賞において(この「鑑賞」は、作品への出演者自身の受容も含まれる)は、作品から意味を読み取る作業が存在する点で、スポーツのそれとは異なる。そこではムーブメントの積み重ねによってストーリーが生まれてくる。ストーリーは記号・表象に時間軸を与えて構造にしたものだ。フィーリングをストーリーとして構造化するとドラマとなる。

ストーリーが時間の経過を重要とするのに対し、ヴィジョンは空間の構造や質を示す。また、ストーリーはムーブメントの連続が大切でモーションとトーンはあまり重要ではないのに対し、ヴィジョンはムーブメントも大切だが、まずモーションとトーンが重要である。

ヴィジョンは空間的な印象が強いが、だからといって時間軸が無いわけではない。ヴィジョンは常に未来に向かって投影するイメージである。これに対し、ストーリーは出来事の経験の連なりであり、過去の連なりである。これに則って言うならば、演劇が行為+時間=ストーリーを読むもので、ダンスが動き+力=ヴィジョンを読ませるものと定義できる。ただし全ての表現を二分することはできない。これらは表現上に主に共存しているからだ。例えば抽象バレエは動き+力+行為+時間と連なりつつも表象がないためストーリーが無い。行為の組み立てをストーリーとして読み取ることもできるが、どちらかといえばヴィジョンをストーリーとして時間軸に並べた状態のまま提出されているといえるだろう。

座標の枠割り

ここまでマップの在り方と読み手の態度を述べてきたが、次の問題として、どのように作図するかが問題である。世界地図を見てみると用途に合わせてメルカトル図法、モルワイデ図法、ダイマクション図法など様々な展開方法があり、それらは経度緯度グリッド、また等高線といった表記基準とそれを示す基準線が存在する。地図には目的に合わせ空間を定義し、また空間を分割するデザインがある。

サッカー選手の例で述べていたマップも、マップを使ってコミュニケーションをする際は、ガイドとなるものがなければ、現在の自分の位置と、目標の位置との関係を共有できない。世界地図の北極南極などが歪んで表現せざるを得ないのも、両極端である北極南極はどうしても歪んでしまう(ダイマクション図法は除く)。表現する上で主に人間が生活する大陸を中心としたルールが歪んだ北極南極に顕著に現れている。戦略地図とデジタル時代のマップおよび当事者マップとを作図する上でも立場が違うだけに、表現するルールは異なるはずである。前者は空間を表現するルールを予め定めた所に図を流し込むものであり、後者は図に合わせてルールを決めガイドラインを引く。そして現在出回っている地図は全て前者なので特に例を上げて説明する必要ないであろう。問題は後者で、一体どんなマップになるのか言葉で言われても想像に苦しむであろう。

一つの例として、即興芸術のスコアがそれに値する。即興である以上、即興は出来事をすぐさまdescriptionとして意識化し、次のprescriptionとして打ち出すサイクルの円滑さが必要である。

西洋画法と東洋画法におけるdescription

記述するテクニックとして、景色を捉える絵画の方法論から学ぶことは多い。西洋的なものの見方は、例えば西洋画に表現される一点透視図法は消失点によって画面が支配され、陰影法によって凹凸がリアルに描かれた。これらの図法から合理的、科学的精神、秩序への信頼といった精神が具体的に伺える。これらの視座は一神教に強く見られる精神に基づくもので、絶対的視点の上に遠近、大小、親疎の関係の中に位置させられる。それに対し東洋的なものの見方は、複数の視点と重心で構成され、アニミズム的思想が画法にも強く現れている。近代日本における西洋絵画の先頭を切った画家、高橋由一が東洋文化と西洋文化のせめぎ合いの中でそれぞれの画法の違いに触れている。

「和漢ノ画ハ筆意ニ起リテ物意ニ終リ、西洋画法ハ物意ニ起リテ筆意ニ終ル。」

ここでの筆意、物意は中国画法の写意、形似にあたる。これは謝赫(シャカク)が伝えた画法六法に、筆の扱いを説く「骨法用筆」があり、後にその画法理論を張彦遠が発展させ「形似」という概念へと思想を進めたものである。

「それ物を象るには必ず形似にあり、形似にありては須く其の骨気を全うすべし。骨気と形似とは皆立意に本づき、而して用筆に帰す。故に画を工にする者は、多くは書を善くす。」

形似とはものの骨格を見抜くことをいい、高橋由一の一文の意味は、和漢の画は骨格を見抜くことから表現が始まり、それに説明を加えて具体的にするのに対し、西洋の画は具体的な説明から始め、精神的な表現へ描き進める点が異なる、ということを説いている。

空間と時間をpathする線

次に一点透視図法が打ち壊され、写意と形似の手順が反転し東洋絵画の見方に近い西洋絵画の例を見よう。まずイタリア未来派のボッチョーニを取り上げる。彼はこれまで瞬間しか捉えられないと考えられていた絵画に、時間表現を持ち込んだ画家の1人である。未来派以前には、フランス印象派の画家達は日本の浮世絵を始めとする東洋絵画に魅了され、中国画法を勉強した記録は無いが、直感的に自分たちの技術へと吸収した。新印象主義を経て、未来派の画家達はキュビスムの技術を用いて、空間と時間を自由なアプローチで従来の画法に捕らわれない空間構成を提示した。なかでもボッチョーニは視覚的な激しい運動の体験をどのようにキャンバスに定着させるかという主題について他の未来派と異なる。マイブリッジやマレーの連続写真の技術が同時代として影響しているが、ただ単に連続した時間を圧縮して描き込んでいるのではなく、姿勢が急角度で傾き、複数の斜線が描き込まれる。

ここで注目したいのは、景色を描いたと思われる絵の多くに、進行方向とは別に縦方向に柱、もしくは縦線が描き込まれていることだ。この柱線に着目すると、ある時間軸のガイドラインとして見えてくる。丁度コンピューターでのビデオ編集のタイムラインに並ぶ動画オブジェクトの切れ目にも似ている。しかしこのボッチョーニの場合、ガイドラインは地図における緯度経度のような空間だけを切り分けるものではない。建築物は斜めに倒れ、襞のように折り重なっているかのように描かれているが、これは速度や躍動感といった時間のボリュームが空間のボリュームに置き換わって表現されていると思われる。これに対し、複数の柱は時間の軸となって、その歪んでいく空間と運動によって引き起こされ、圧縮された時間を繋ぐガイドとして作用する。この例から、一つの視覚的な体験が記述自体であり、descriptionつまり記述のひとつの表現方法であり、形似から組み立てられた空間と時間のヴィジュアルであることが言えるだろう。そして、デジタル時代のマップはボッチョーニの柱のような空間と時間といった多次元の情報を横断させるpath(経路)であると考えられる。

時間と空間を横断する線

空間を分析するために緯度経度といった空間分割法を発明し、運動を分解するために連続写真を発明した。ボッチョーニは、それら空間分割法と時間分割法の中間を行く技術を想像した。サッカーのような刻一刻と変化する戦場空間では、ボッチョーニのような空間と時間を横断する地図が各選手のイマジネーションに形成されていると思われる。ボッチョーニがそこまで考えていたかは分からないが、現時点では彼が想像したであろうヴィジョンは、サッカーを行う選手同士が具体的に共有されているわけではなく、経験的に知っているにとどまっている。これらが、実際地図として目の前に立ち現れたとき、それは人間の能力の低下の助長ではなく能力の拡張であり、プリミティブな野生の直感を理性で観察する切り口の一つである。

導く線

地図とは本来、地表面とその上の建物や道路などの人工物を射影として記録したものである。しかし、私たちが読み解く対象は本当に影なのだろうか。地図に求められるものは未来への見通しであり、未来が現在に落とす影を読むことなのだろうか。

私は断言したい。たどるべきは影ではなく線であると。

東洋水墨画が毛先のとがった筆を使い、西洋絵画が平筆を使うのには理由がある。東洋では線を描く必要があり、西洋画は影を描く必要があったからだ。輪郭線は実物には無く地と図を分けるための境界線であり、形似の役割を果たすものである。つまり、ものの骨格を見抜くこと。

線は時に方向を示す矢印となる。

線は交わることで新たな意味を生み出し、線をたどることで別の線と重なり、たどる者同士が時空を超えて渡り合い、会話が生まれる可能性を秘める。

一方で、面はそこにあることを示すものに過ぎない。面同士の重なりは会話にはならないのではないか?

線は動的で能動的だが、面は静的で受動的だ。

線は関係を表し、面は存在を表す。

線の交わりこそが、次の線を引くことを可能にし、次の次元に進むことを可能にするのだ。線の重なりをじっと観察し、線を描き足すより進む道はない。

地図を読むときは線で追うのだから、これが地図を読み解く方法。

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