15歳で薩摩琵琶を始め、高校時代は映画のようなスペクタクルな琵琶の語りに惹かれ、ノイズ音楽の大会にも出場。社会人になると演奏の機会がなくなり、20年間封印されていたが、2023年に台湾のアートプロジェクトに参加したことをきっかけに、琵琶とダンスを融合した新たなパフォーマンスに挑戦している。
薩摩琵琶との出会い
15歳で薩摩琵琶を始めたきっかけは、まったくたいしたことではなく、高校生になる際に音楽の趣味を持ちたいと思い、多くの人が始めるバンド活動と全く同じ気持ちでした。しかし、バンド活動には興味がなく、エレキギターも好きではなかったため、たまたま出会ったのが初めです。
1992年の中学卒業の春休み、実家の名古屋で見た薩摩琵琶、荒井姿水先生のコンサートがきっかけす。当時から映画のようなスぺくタルガ好きだったことから、荒井先生の圧倒的な迫力と、起承転結のある物語を語ったり、リズムがあったりとスペクタクルの要素がすべて得入っていた琵琶の語りに惹かれました。すぐに楽屋に行って弟子入りし、進学した4月高校1年生になると横浜の先生の自宅に通うことになりました。学校は埼玉でしたが、東京に行く理由にもなり、通う日々が始まりました。親に端で楽器を買ってもらい、嬉しくてどこに行くにも楽器を持って行ってあちこちで琵琶を弾いていました。
琵琶少年ラジオに出演
2000年以前、当時はインターネットがなく、情報収集は雑誌やラジオ、ライブハウス、それとマニアックなレコード屋と本屋に直接行くしかなかった時代でした。現在のyoutuberのポジションに深夜ラジオがあり、夜な夜なマニアックな番組を聞いていた時代でした。その中でも、特にモーリー・ロバートソンの「Across The View(アクロス・ザ・ビュー)」という挑戦的な番組があり、そのなかの「シンセで勝負しろ」というスピーカーのLRで対戦するするノイズ音楽の番組があり、それに琵琶少年という名前で参加する経験もありました。これはJ-WAVEのラジオ局までいって準決勝まで進みましたので知っている人もいるかもしれません。
高校3年生1995年の時、水戸芸術館で開催された長期ワークショップ「相談芸術大学」に参加しました。学長の小沢剛をはじめ、会田誠、福田美蘭といった錚々たる講師のワークショップでした。この大学祭の中で、ミシンを使ったノイズの演奏と琵琶の演奏を組み合わせた演奏を披露しました。ミシンにたしか琵琶の譜面やアルミホイルを長帯状にコラージュし、フットスイッチでミシンでそれを送ることでノイズを出しながら、それに合わせて琵琶で演奏するというノイズパフォーマンスだったように記憶しています。
山形の大学に進学しても、年末には先生のもとで約2週間滞在し、練習に励んでいました。ICCでダムタイプの高谷史郎さんがパフォーマンス「OR」のビデオ編集を手がけていることを浅田彰さんの紹介で知り、見学に行った際も、琵琶を手に持っていました。1999年にはフランス、モーブージュでダムタイプの滞在制作に参加し、フランスまで琵琶を持参しました。当時はトレードマークとしていつも持って行くものだったように思います。
しかし、社会人になると演奏の機会がなくなり、元々うまくはなかったので、20年間ほぼ琵琶が封印されていました。
20年の封印からの新境地へ
しかし、2023年には大きな変化が訪れます。台湾アーティス許家維+張碩尹+鄭先喻とYCAMによるのアートプロジェクト「浪のしたにも都のさぶらふぞ」では、日本の古典芸能の浄瑠璃と平家物語の壇ノ浦がリスペクトされました。音楽には浄瑠璃三味線とノイズミュージックで知られる田中悠美子さんが参加しました。このプロジェクトを通じて平家物語に新たな視点を得ると同時に、田中さんの後押しで20年間放置していた琵琶に再び取り組むことができました。また、どらビデオの一楽儀光さんの勧めでとコンテンポラリーダンスとモーションキャプチャーの技術を融合させることを推進されました。モーションキャプチャーの導入により、琵琶演奏とダンスの両立が可能であることに気づかされ、これまで想像もしなかった可能性を開拓しました。
先日の秋葉原での演奏ではシステムのトラブルがあったものの、うまくできればモーションキャプチャーを活用して全身で演奏可能となり、新たな可能性が広がりました(予定)。まだ一般には公開されていませんが、これから機会があるごとにこのパフォーマンスを続けようと思います。もしもこれを読んで興味ありましたら連絡ください。